折尾愛真

折尾愛真学園の創立者、増田孝は、1904年(明治37年)福岡県遠賀郡に生を受けました。1925年(大正14年)大分高等商業学校(現・大分大学経済学部)を卒業します。

当時はマルクス経済学者 河上肇を慕い、共産主義者となっていましたが、肺結核に冒されたときに、平安を求めて『資本論』を読んでも、そこには魂の慰めとなるものは見出すことができませんでした。そんなとき、内村鑑三の本を読んだことから聖書と出合い、洗礼を受けます。「マルクスからキリストへ。資本論から聖書へ」という人生の大転換を体験し、魂に平安が訪れるとともに、病も癒えていきました。

1929年(昭和4年)京都帝国大学を卒業し、生涯の使命は自らの決断であってはならないと考え、「神のみ旨をなしてください」と祈りました。その結果、キリスト教教育者として学校を創設することにしたのです。

とはいえ、私学の事業は最も困難な事業の一つです。増田は、既設の学校に雇われて教職に奉仕することも考えましたが、それでは自分の教育理想を思う存分に実現していくことはできないと思いました。信仰とはどれほどの力であるか、神が助け、神がまさかのときに備えて道を切り開いてくださることに挑戦してみたい、というのが、私学創設の根本にあった増田の精神でした。

先祖代々浄土宗の仏教徒であった増田家からクリスチャンが出たことに、父幸蔵は困惑しました。学校設立にも反対しましたが、増田の決意があまりに堅いことを知り協力者となってくれました。同じように反対していた叔父の小川登一郎も、のちには理解者となり、小学校校長の立場から協力してくれました。増田が信じたように、さまざまな困難には助け船があらわれ、1935年(昭和10年)〈折尾高等簿記学校〉が創立されました。

増田に続いて母が、また75歳の祖母が、最後には父までもがキリスト教に改宗しました。また、妹の勝代は良き協力者となり、学園を支えました。

増田の子息祈は著書『父母を語る』の中で、「私はいつも思う、父に接するたびに、『真の教育者、ここにあり』と。この世に向かって大声で、誇らしく叫びたい。教育者は、自ら神の前で教育されるものでなければならない。父はいつも神の存在に畏れつつ、祈りつつ、教育に向かう。神への信仰こそが、父の教育原理である。(中略)

父はまた大変な人間通である。教育者には欠くことのできない要素である。一人ひとりをこの上もなく大事にする。私によく話してくれた『生徒を叱るときは、その人だけにして叱れ。誉めるときは皆の前で誉めよ。』

1947年(昭和22年)新学制により折尾女子中学校を設置、さらに翌年には折尾女子商業高等学校を設立し、中高一貫教育を目指します。1955年(昭和30年)には愛真幼稚園を、1966年(昭和41年)折尾女子経済短期大学を設置するなど、総合学園として発展を遂げています。

平成となって時代は変わり、女子教育を掲げていた学園も男子学生を受け入れ、〈折尾愛真中学校〉、〈折尾愛真高等学校〉、〈折尾愛真短期大学〉に校名変更し、現在では男女共学校となっています。