折尾愛真

記念館の歴史


旧折尾警察署庁舎移築の経緯創立者増田孝著「折尾女子学園四十年史、その苦難と恩寵」(七)校舎建築(その二)より

一、逐年増加し来れる生徒数は、昭和十六年度に於て三百名を遙かに超えることとなった。設立当時の生徒十数名に比して、隔世の感があった。この多数の生徒を収容するに校舎は甚だ狭隘であった。校舎の建築は緊急の要請であった。

しかし新しき資材にて建築することは、当時、支那事変中の時局下にては不可能とは言わざるも、困難なることであった。まして百坪の建築の計画に於ておや。然し困難なるが故に退くわけには行かない。信じて突き抜ける外はない。ここにも亦、幸なる機会があった。

それは町内の旧警察署百五十坪の堂々たる二階建の庁舎が正に売払はれんとしていることを知った。直ちに折衝を開始して、村田町長の厚意の下に買収することが出来たのである。幸いにもこの資材に新資材を加えて建築資金を調達、建築計画の実現に着手したのである。

一、資材も不足、労力も不足の時代である。県知事の建築許可を得ることの困難は、予想以上であった。
建築に要する相当額の資金を如何にして調達し得べきか、実に小なる個人の力を以てしては余りにも難きことであった。
しかし見えざる手に導かれつつ建築の許可もあたへられ、資金も乏しき中にも次々に充たされて行った。思はざる人々の寄附の申出もあった。

昭和十六年六月に着手したる建築は、その年の十二月堂々たる二階建百坪の校舎の竣工となった。其の一本の柱にも、一枚の瓦にもこもる苦心の跡が偲ばれるのである。
その苦心は、彼の父と彼の胸とに刻まれたる秘めごとであった。

この校舎の竣工により生徒収容数を増加するを得て、昭和十七年度の現在に於ては、既に四百名を超える生徒が、勉学にいそしむことが出来ているのである。

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建物の概要と特徴九州共立大学工学 博士 尾道建二名誉教授・下関中央工業高等学校 建築科長 松原浩一教諭調査書より

木造二階建て、寄棟屋根桟瓦葺き、五寸五分勾配、桁行き13,670mm、梁間8,940mm。正面を東側に向けて建っており、南側に片流れ屋根の下屋の階段室が付いています。
外側は西一階を除き、イギリス下見の下見板張り白色ペンキ仕上げで、破風板・鼻隠・額縁等は緑色のペンキが塗られています。正面立面と背面には付柱が付いています。基礎は鉄筋コンクリートモルタル仕上げですが、正面のみ基礎に当初のものと思われる御影石が使われています。外部開口部は西一階を除き木製サッシ、軒天井は板の目透かし貼りです。
建築当初のものと思われるモールディングを施した窓廻りと回り縁が残っていますが、内部装飾は簡素で、明治時代末期の特色と言えます。
小屋組はキングポストトラスを用いており、部材は建築当初のものです。小屋組は新しい材で補強されていますが、近年の改修時のものです。なお、部材は墨書の番付が打ってあります。
立面は左右対称形ですが、平面中央に階段は無く、平面の左右対称形は崩れています。明治時代末期の特徴を表していると言えます。
旧折尾警察署庁舎は明治時代末期の木造建築であり、当時の建築変遷を知る上で重要な建築遺構と言えます。

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神前 誠先生は2015年6月8日、92年の天寿を全うされました。先生は折尾愛真学園の良き理解者、協力者のお一人であり創立者増田 孝先生と深い交流がありました。その交わりをとおして若き魂を育てる熱意をお互いに尊敬しあい、そのことゆえに神前先生は学園を支え続けてくださいました。先生が20歳前半の若き日に創設され、心血を注いでこられた福岡洋裁専門学院を解散されるにあたり、高額の残余財産を学園にご寄附いただきました。感謝をこめて明治42年に建てられた記念館への通路を「神前通り」と命名し整備いたしました。